石河内の歴史&伝説


縄文時代の遺跡



石城(いしじょう)


「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10~15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東氏一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。伊東は石城を捨てました。引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)


                                          平成14年 木城町教育委員会