石河内の歴史&伝説


縄文時代の遺跡



石城(いしじょう)


「石城」の地名は南北朝期から見え、日向国児湯郡のうち 新納院(にいろいん)に属する。 石城は、上城、と下城よりなっていた。三方に川が巡り、 断崖をもって望み、一方は高山にてさえぎられた半島状の要 害であった。上城址は新しき村の百間道路入り口より、「心字池」の辺を過ぎた右側の水田地帯と推定される。下城は「鍬入れの碑」の建って いる後方の山林地とされている。

耳川の合戦のとき、石城は伊東48城の残城としてかろうじて存在していたのである。日向に残存する伊東氏一族ら譜代の侍衆は山陰衆や日知屋が大友氏に加担することを知り、石城主永友八兵衛尉宗弘と共に篭城した。大友軍は美々津蚊口より上陸し、石城の後詰めとして島津軍を挟み撃ちにする企てであった。だがこの企てに相違し、大友軍は進まなかった。島津氏は山裏衆や米良山中にも働きかけていた。7月6日、伊集院右衛門太夫忠棟を大将とする島津氏の大軍が石城に攻め寄せた。石城軍(伊東氏方)の長友源次郎宗弘をはじめ、諸武人は覚悟していたことなので少しも恐れず、山田土佐守を先陣として懸命に戦った。一方島津軍は、大軍とはいえ石城は前述したように半島状の要塞であることと、石城軍の必死の防戦にあい容易に攻めることが出来なかっ た。手負いのもの五百余人、討ち死にする者多数出たため、戦い不利と見た島津軍は一度佐土原に引き上げた。石城軍の方にも宮田叉六をはじめとして多数討ち死にした。手負いの者多数出たとはいえ戦利の立場をとることは出来たのであ る。その後島津氏は、山裏衆に一層働きかけ石城を孤立させようと図った。9月15日、島津右馬頭以久自らを総大将に伊集院右衛門太夫忠棟を副将にして、 大軍にて石城に押し寄せた。島津軍は大木を伐り浮橋を作り、軍勢を渡し、城壁をよじ登り鉄砲を撃ち続けた。石城軍は人形を造り、これに鎧を着せ、棟に対象の島津以久の姓名を大書し、堀の上に立てて戦う一幕もあった。以久は大いに怒り、 直ちに安藤備後守に命じてこれを撃たせたという。石城軍は島津軍の猛攻にも屈せず昼夜を分けず三日三晩奮戦したが、しかし多勢に無勢。しかも求めていた大友軍の援軍も来ず、兵糧も乏しくなり、已む無く降伏し城を明け渡した。
                                                  引用:不明 

 

「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10~15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東氏一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。伊東は石城を捨てました。引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)


                                          平成14年 木城町教育委員会

伝説


『小丸川の郷物語』をご覧ください。